なぜ私は弱者を応援したいのか
まず掲題の前に、少しだけ余談を。
昨年全くブログをかかなかったのにこんなに連投するなんて想像もできませんでした。
でも声帯結節になって声がだせなくなって、想うことがあったんです。
「 何かを失うということは、必ず何かを得るチャンスがある。」
ということ。これをこの好機を損失するのも自分であれば、それを期に自分を変え、新たな何かを手に入れるのも自分。
前回の記事が現時点でアクセスは数千にのぼり、Facebookだけでいいねとシェアを900くらいもしていただいている。それだけ共感や何かの気づきに繋がってくださったのは素直に「嬉しい」と思いました。
前回の記事↓
私は特にここ数年は「直接会って対面で向き合う」ことを重視してきました。だからこそ多くの方から信用をいただいたと思っていますし、その事自体に後悔は微塵もありません。しかしながら、忙しさにかまけて本来好きな「書くこと」だったり「発信すること」にあまり時間を割いてこなかったということも、今回の件で認識しました。
「記す力」って本当にすごいと思っています。古代文字なんて数千年もの時を経て、今もなお遺っており、それを情報として解読できるレベルで継承されている。宗教の教典や聖書などもそうで、人々の想いが脈々と受け継げられている。これは本当に凄いことだし「記すことの大切さ」を改めて考えました。
私は記すことの大切さを、実は、既に十数年前に痛感していたはずなんです。それはなにか?
私の恩師であり世界で一番尊敬し、世界でただ1人憧れた存在「こんな大人になりたい!」そう心から思えた人。古賀武夫先生がそれを生前教えてくれていました。
武夫先生は私が24歳の頃、大学院生を卒業する頃、これから社会人としての一歩を踏み出す頃、ガンでお亡くなりになられました。私はそこで一度人生の目標を失い、心は一度そこで死んでしまったのです。
途方にくれ「もぬけの殻」になったとき、もう一度私に活力をくれたのもまた、武夫先生のブログでした。つまり先生は、私に「死ぬということ」と「生きるということ」この人生における大きな2つのテーマを、私に問うてくれたのです。そして先生のお陰で私は「死ぬということ」「生きるということ」「人の本当の幸せや豊かさとはなにか」を人生をかけて問い、いろんな経験をし、いろんな世界をみて、そこに自分なりの「解釈」を与えることができたのです。
その後、私は社会人になってからも、幾度となく先生のブログを読み返しました。ペライチを起業してからは、さらにさらに深く読み返しました。
特に、
人生における大きな選択をするとき。
自分の判断によって組織や社会に大きな影響を及ぼしてしまうとき。
理想と現実のはざまでもがき苦しんだとき。
そんなときはいつも武夫先生のブログを読み返し
「もし武夫先生が目の前に現れたとしたら、自分は100%自信をもって胸を張れる判断をできただろうか?」
常にそれを自分自身に問うて生きてきました。
武夫先生のブログはこちらです(いまちっぽけな私のブログなんかを見るより100倍心に響きます)。山下マニアの方はぜひ見ていただけると嬉しいです。
先生のブログは文章に生き様が、魂が現れています。まさに言霊です。刻一刻と迫り来る死に、最期の最期まで弱音をはかず、太陽のように明るく、いつも自分よりも地球のこと世界のことに想いを寄せ、発信されていた。
先生のブログをみたら、いまだに見た瞬間から涙が止まりません。ずっと泣いてしまいます。そんなブログを先生以外のブログで見たことはありません。そして同時に、先生のブログはとんでもない活力もいただけます。
「俺はまだ生きてる!!!!生きてるだけで丸儲け!!!!」
「こんなちっちゃなことで悩んでる場合じゃない!!!!
もっと視座を高く!もっと視野を広くそして深く!もっと遠い未来を見据えて思考と行動をしなければならない!!!!」
「俺が生きているうちに必ず先生の夢だった世界平和を実現するんだ!!!!」
そして、つらいときは
「翔一!今ここで頑張らんで、いつ頑張っとか!!!!!!」
「ツライときこそ笑え!!翔一!!!ガハハー!!!!!」
と先生が言ってくれる気がします!!
リーダーというのはとても孤独だと言われますが、確かにそうかもしれません。
しかし、今の私には日本中に、いや、世界中に同志がいる。
ちっぽけな私ではできないことも世界中の同志の力を借りたら無限の可能性が広がる。
そして心の中にはいつも恩師がいる。
恩師の言葉がいつも見れるところにある。
こんなに心強いことはありません。
だからこそ「俺は何でもできる!!!!!古賀武夫が生きていたら笑いとばしてやっていたはず!!!!!俺は古賀武夫を超えると誓ったんだ!!!!!こんなところでつまづいてなんていられない!!!!!まず笑おう!!!!!!」何があっても、そう思えるのです。
そう、やっぱり「記すこと」は本当に凄いこと。
文字には本当にすごいパワーがある。
私はほとんど本を読まないけど、偉大な経営者たち、先人たちの本にはたくさんの知恵と勇気をいただいた。
それをもう一度「声がでない」というチャンスが、教えてくれたのかもしれません。
このタイミングだからこそ「記そう」と思えたのかもしれません。
だからこそ、自分の想いを「遺したい」そう思ったのです。
自分が明日死んでも、今までに記したものは「遺る」。
つまり肉体は滅びても、自分の意思は文字を通して遺りつづけ、いつの日か誰かに勇気を与えたり、誰かに居場所を与えたりできるものになったらステキだなと思っています。
なのでこのブログで改めて、私の普段語っていること、そして語らないことも記していきたいと思うので、しばしこの旅にお付き合いいただけますと幸いです。
さて、前置きだけで1回分になってしまいましたが(笑)
本題に入ります。
「なぜ私が弱者を応援したいのか」
「なぜ私はいま弱者を応援しているのか」
結論から言うと、
①私自身が弱者だった(幼少期に裕福ではなかった、仕事が全くできない落ちこぼれだった)
②誰にも負けないネガティブな子どもだった
③そこから変われた自分がいた、だからそういう人を助けたいと思った
④弱さを知るものこそ、優しさを兼ね備えた真の強き人間だと思う
だからです。
実はこれ、ほとんど話したことがありません。
上記の問いに答えるには、まず自分の幼少期について話さなければなりません。
断片的に話したことはあるかもしれないけど、私の幼少期の闇の部分を話したことがある人はごくごく一部な気がします(親にすら言ってないこともあるかと)(笑)
けっこう貧しかった幼少期時代
私は1983年に佐賀県佐賀市に生まれました。佐賀への愛が人一倍強い人間です。
実家は、本当に小さな町の印刷会社の2代目社長である父と、母が取締役で、そんな二人の背中をみて育ったのです。
土日祝日を問わず働き(特に母ね、父はよく釣りにいってました笑)、母の車の助手席にちょこんと座ってお客さんのところにいき、可愛がってもらっていました。
いまでこそ、創業65年目で従業員さんも30名近くいてくださる会社に成長できていますが、幼少期は本当に全然裕福でもなくて、外食なんてほとんどしたことがなかったし、朝起きたら台所で朝食をつくる母の隣りでスーパーのカゴみたいな洗濯カゴをひっくり返して椅子にしてそこに座って「ねこまんま(ご飯に味噌汁をかけたやつ)」を食べるのが好きでした。
小学低学年くらいまでは、お腹が減っていても家に迷惑をかけまいと子どもながらに気を遣い「お腹いっぱい」と言ってご飯のお代わりはあまりしない子どもでした。だからお金がない苦しさとか、やりたくてもできない辛さとか、やりたいことをやりたいと言う申し訳なさがとてもわかります。
スーパーネガティブ少年、翔一
私は子供の頃、スーパーネガティブ少年でした。今でこそかなりのポジティブ人間ですが、子どもの頃のネガティブ度でいうと本当に佐賀トップクラスだったと思います(笑)
具体的にどういうことを考えていたかというと、
・親と遠出をするときは「ここで車から降ろされたらどうしよう。。」という不安でいっぱいで、最悪自力でも帰れるように家から目的地までの道のりは大体記憶していた。
・夜中に「とんでもない空腹に襲われたら生きていけるだろうか?」と毎日のように思っていた。幼少期はハロー(主婦の店)というスーパーが家の近くにあるくらいでコンビニなんてなかったので夜中の不安がハンパなかった。
・大地震などの天災で九州が本州から切り離されたら、物資の供給はどうなるのだろうか。これも夜に不安すぎて寝れないことが多々あった。
・何かのきっかけで日本が戦争に巻き込まれたらどこに隠れるか、どうやって生き延びたらいいか。
・(当時は両親がよくケンカしたり、たまに母が私を抱えて車で軽い家出をしたりもあったので(笑))リアルに離婚したら、俺はどちらの方についていくべきか。親父は経済的には自立できるだろうし、強がるだろうけど、本当は精神はネズミのような性格なのを知っている。かといってはやっぱり母が心配だ、俺がいなくなったら母はどうなってしまうのか?母からの無償の愛は一番感じていたのでやっぱ母側につくべきか。じゃあ俺が稼がないといけないよな、何しよう。。
・このまま一生モテなかったらどうしよう(大学1年まで彼女ができなかった)。。周りの女子はみんな俺のことが嫌いなんじゃないか。。
・被害妄想が凄すぎて、他人の話とかずっと聞いてたし、ずっと視線も感じてた。
とか挙げればキリがないんですけど。
「可能性は低いけど、あらゆる潜在リスクが気になって仕方がない」人間だったんですね。ポジティブにいうと、想像力が豊かだったのです(笑)
本当にしんどくて変わりたくて変われた自分
翔一少年はネガティブな自分を本当に変えたかったんですよね。しんどすぎて。。
これって心理的安全性をどう担保するかがすごく大事だと思っていて、私の場合は、
①何があっても裏切らない、否定されない、聖域ができた(家族、親戚、友、空手や英語道場のコミュニティなど)
②自分自身に生きてく力がついた(食べていく力、人を巻き込む力、人の気持がわかる力、信用)
③いい意味で死ぬのが怖くなくなった(恩師の死が教えてくれた)
だったんですよね。それで「何があっても大丈夫!生きてりゃなんとかなる!」と思えるようになりました。何も怖くなくなって、嫌いな人もいなくなって、嫌われることも怖くなくなって、そして嫌いな食べ物もなくなりました(笑)
だからそういうツライ気持ちがわかるから、変わりたくて変われない人をみると助けたくなるんです。ただ、勝手に変えようとは思いません。そんなことおこがましいので。
弱さを知るものこそ、真に強きもの
これもやっぱ恩師である武夫先生の影響が大きいですね。幼少期から習っていた空手の稽古で毎日最後に斉唱する言葉がありました。それは、
「強くやさしく、やさしく強く」
もうね、これ暗示ですわ(笑)
毎日毎日これを小さい頃から唱えてますからね、宗教ですよね(笑)
でも武道の素晴らしさはそういう精神にこそあると、大人になって本当に思います。
強くてやさしさ無き者は、もってのほか。
でも、やさしいが強さ無き者は、大切なものを守れぬ、正しさを通せぬ。
強さとやさしさとは、対になってこそ素晴らしい。
これは自分の人生のベースになっている一つの価値観ですね。
これがあるから「やさしさがない強さは意味がない」と思えた。
「やさしさ無き経営は、独りよがりの経営だ」と思えた。
そして、やさしさとは、押し付けることではなく、寄り添えることだ、と。
弱かった者は、弱い者の気持ちがわかる。
だから弱い者に寄り添える。
弱い者が強さを手に入れ、やさしさを忘れなければ、また次の弱い者を助けてくれる。
だから私は弱い者を応援したいのだと思います。
事業や活動をやるとき、助けたい対象は別に誰を選んでもいいんです。
でもやはり心から助けたいと思える者を応援する方が、一番パワーがでると感じます。
私の場合はそれが、地方だったり、高齢者だったり、女性や主婦だったり、子どもだったり。どの側面に弱さがあるかはそれぞれによって変わりますが。
子どもの頃から世界平和を目指しているので、最終的には地球上の全ての方に幸せになってもらいたいのですが、まずは身近な日本、そして弱い方からですね。
あなたは誰を応援したいですか?