ペライチ創業者 山下翔一のブログ~佐賀から世界へ~

100以上の法人や国・自治体とのプロジェクトを手がける起業家 山下翔一のブログです

皆さんから見たら私が不自然かもしれないが、私から見たら皆さんが不自然です

ブログが久しぶりすぎて、逆に新しい。Hello Weblog
 
久しぶり過ぎるので、ここ数年めっちゃ言われる下記の質問に対する違和感をとりとめもなく書いてみた。
 
「なんでそんなにたくさん肩書きやプロジェクトがあるんですか!?」
「なんでそんなに名刺多いんですか!?」
 
ってよく不思議がられる。
 
答えは簡単で「増やそうと思ってない」から。
 
つまり「そこに興味がない」からです。
 
増やそうとも思ってないけど、
日々たくさんお願いされるし
増えることにも減ることにも興味がない、
からです。
 
むしろ名刺の数は減らしたいと思っている。
名刺交換と補充が大変だから。
でもどれもステキな法人で困る。。笑
 
立ち上げたり関わっている法人やプロジェクトは百何十かあるのだが、いま持ち歩いている名刺は選抜した13法人+2プロジェクトのもの。
最近は配るのが面倒なので「ペライチ+2〜13で好きな番号選んでください」ってお伝えしている。
 
ちなみに、ここ1年くらいはほとんど増やしていない。
ペライチやわくわく課はじめ既存に注力したかったので。
もちろん、それでもボランティアや御用聞きは支障のない範囲でたくさんやっているのだけれど(特に国や地域や若者のためになること)。
 
自分が正しいとか凄いとか1ミリも思ってないし、
そういうことを言いたいわけではないし、
得意不得意やその人の役割も優先順位も志向性もあるのだが、
私が言いたいのは、
 
「みんなが同じことしてるって自然界的には不自然だなぁ」
「なんでみんなそんなに一つのことだけをずっとやれるんだろう!?みんな右向け右で同じ方向向けるんだろう!?不思議だなぁ」
 
だ。
 
これは別に仕事とか事業に限ったことではなくて、すべてのことに対して。
社会には「べきだ」と「当たり前」が蔓延している。たとえば、
 
人としてこう在るべき、生きるべきだ。
一つのことに没頭・全うするのが当たり前だ。
一人の人を愛するのが当たり前だ。
一つの地域・家に住むべきだ。
よそ者は口を挟むべきじゃない。
子供は大人から教えを受けるべきだ。
子供は学校にいくべきだ。
宿題はすべきだ。
大人は働くべきだ(働くということもわかってないのに)。
お金は稼ぐべきだ。
貯金はすべきだ。
他にも死ぬほどある。べきだ星人が蔓延している。
 
凄いよね、幸せにも愛にも命にも学びにも制約ってあったのか?
知らなかった。人間は神様なのか。
 
念のため明言しておくが、上記のことが悪いと言っているわけでもないし、もちろん私も準じていることもある。「それが絶対だ」ということ自体が自然ではない、と言っているだけ。それをやる人もいて、やらない人もいる。それが自然。
 
人間って、統治や繁栄をするために、様々なものを創ってきたよね(もちろん、統治をするためにつくられていないけど、結果利用されているものも含めて)。
 
言語、概念、定義、宗教、主義、法律・制度・ルール、人為的法則、通貨、モラル、仕組みやシステム、普通・一般、統計、組織、理想像、評価、美しさ、技術 etc.
 
これらが、人を中心に(かつ多くのものが一部の者の利益や名誉やエゴのために)設計され、それが人のなかで適用され、人と人を比べそこに評価が加わり、優劣をつくり、自由を奪い、貧した者は生きるために他人から奪い・傷つけ、裕した者はそれを手放すまいorもっと欲しいがために奪い傷つける。
 
結果、人は自由も、豊かさも、幸せも手にしていないと思い込む。
偉大な先人たちが創りたもうた「当たり前」という大いなる縛りによって。
そして、自然ではない人間は、人に対しても、それ以外の生命や環境をも脅かしてきた。
 
人とは何様なのだろうか?
 
 
まだ時を戻す力は自分には宿っていないが、話は戻そう。
 
「私と皆さん、どちらが自然だろうか?」
「どちらも自然」と本当は言いたい。
 
だが、私を含め、残念ながらほとんどの人間は自然ではない。
 
人が人として、今の一般的な人なりの生活を送るには、極めて不自然なことが発生してしまう。
 
それをまず認識したい。
 
その上で、
 
「私と皆さん、どちらが自然な生き方をしているだろうか?」
 
おそらく、皆さんからみたら私は不自然に映っていることだろう。
 
たくさんやっている→がんばっている
誰かのために→自分を犠牲にして
 
逆です。
私は私の自然な状態を誰よりも理解している。
私は自分の自然にピュアに生きている。
この生き方が私の自然です。
 
思い出してほしい。
 
おぎゃあ〜と生まれたとき、
私が上に挙げた先人が創りたもうた数多のバイアスを
あなたは意識していただろうか?
それに縛られていただろうか?
 
きっと答えはNO。すべてが自由だったはずだ。
 
バイアスに支配された人の世界では、
出逢いは主催者・仲介者という不自然な存在により恣意的に場がつくられ、
参加者はその場のコスパを考え「元をとろう」とし、
そのコスパを良くするために主催者・仲介者はあの手この手を考える。
 
その時点で私の見ている景色とは全然違う。
 
あらゆるものが自由な世界では、
すべての出逢い(人以外も含めて)がクリエイティブである。
 
すべての出逢いにインスパイアされ、
すべての出逢いから学びがあり、
すべての出逢いからいろんな妄想や活動が生まれる。
 
逆に問いたい。
 
「なんでそんなに生まれないのか?」
 
それが根本的な問いのはずだ。
私が特殊ではなく、自然界からみたら皆さんの方が特殊だと思うのです。
 
私は3割バッターではなく、
10割バッターを目指したい。
 
そのためにはどんなバットも持つし
スローモーションに見えるデバイスだって身につけるし
対戦相手と仲良くなって手を抜いてもらうこともあるだろう
時には野球のルールだって変えちゃう。
 
だってルールとはみんなが感じているものであって、
本来は自然界にルールなんてないからね。
感じ方を変えればルールが変わる。
 
私は
 
すべての出逢いを未来につなげたい。
 
すべての出逢いから希望を生みたい。
 
すべての出逢いを相手に感謝いただけるものにしたい。
 
そう願います。
 
 
不自然なものが当たり前ということは、
そこにいろんなパワー・力学があるということ。
 
そこを破壊しようとするのではなく、
そのパワーも含めて包み込みたい。
 
その器量を手に入れるためには、
社会に存在するあらゆるバイアスを感じつつも、
無効化する人間になりたい。
 
「こいつなら無効化しても仕方ねぇな」
と思われる人間になりたい。
 
透明という意味での「色がない」ではなく
色が重なりすぎていて何色かわからないという「色がない」
 
これを目指したい。
 
これは自然だ。
 
すべてのものに、色があるようで特定の色がない。
その人の色を勝手に決めつけているのは、
本人ではなく、そう、それを見ているあなただ。
すべての色を受け入れたい。
 
すべてのもの、存在の気持ちを感じてみたい覗いてみたい、
私の根底にあるその知的探究心がいろんなものを突き動かしている。